ワヤン・キョウカイ アラ松本(松本風)



 スマルあり、ブトログル、クレスノ、アビマニュ、しかしトゴグが今回、主人公として進み出る。7月27日、ンダルム・ユドニングラタンで繰り広げられた物語サムドゥラ・サムドゥラ!において、トゴグが松本亮の主題の伝え手である。
 松本とはこのワヤン上演の演出家であり、作者、そして人形遣いである。
 
 演出家? そう、上演されたワヤンは、確かにワヤン・プルウォでなく日本のワヤン・キョウカイである。
 このワヤンは日本の伝統文化の種類ではなく、松本が開花させたワヤンなのだ。

 ワヤン・キョウカイの上演形式は、いやおうなく25年来の松本の親友、キ・スカスマンによって開拓されたワヤン・ウクルの形式を思い起こさせる。
 数多くの松本のワヤンの人物が、彼により注文されたキ・スカスマン由来のものだ。
 
 ワヤン・ウクルの形式のごとく、この舞台は実際の踊り手を見せる踊りの場面で始まり、終わる。
 踊り手はジャワ舞踊のスタイルでゆっくりと優雅に動く。
 おそらく、もしこの場面に、日本の舞踊を見せても心を引きつけるだろう。

 その伴奏音楽は、先のオープン・スタジオ・エイプリルの行事でのワヤン・ウクル上演のように、録音と生演奏の融合した形をとっている。
 違いは、ここでは日本の伝統音楽が参加し貢献し、とりわけ日本独特の笛が鳴り響く。
 そのようにまた歌い手の歌ったのはジャワの歌と日本の歌であり、波のうねりのように悲しい。
 使われた言葉はインドネシア語で、ワヤン・ウクルにおいて同様だが、しかし日本語の中にインドネシア語の語りを合わせている。
 また坊主や狼といった日本の民話の人物も登場する。

 人形遣いとして、松本は二人のアシスタントを彼の近くに付ける。
 一人は人形を握り動かすのに参加し、もう一人は場面の雰囲気に特殊効果を与える。
 この雰囲気の効果は、例えばランプの光に当てたセロファンを通し、青や赤色の造形物として突如現れる。
 ワヤン・ウクルの形式においても、人形を扱う者は1人以上3,4人だ。
 その違いは、ワヤン・ウクルでは中心の人形遣いは観客を背に座り、同時に他の遣い手はクリル(白い幕)の裏手に座すが、松本のワヤンでは、遣い手全員がクリルの裏手に座す点だ。

 サムドゥラ・サムドゥラ!の物語は、三つの場に分けられ、すなわち神の存在と役割についてのトゴグとスクロソノ(スコスロノ)の会話、アビマニュの戦死におけるシティ・スンダリとデウィ・ウタリの悲しみ、そしてスマルとブトログルのバラタユダの戦いの是非についての意見の相違の場である。

 トゴグとスクロソノの会話は、人間の魂の中に神は住まうと結んでいる。
 ここで神として意図されるのはサン・ヒヤン・トゥンガル(唯一神)である。
 彼らはまた争いの原因と結果についても語り合う。この話題は、シティ・スンダリ、デウィ・ウタリそしてアビマニュの会話の場面に引き継がれ、それはトゴグの回想として突然現れるバラタユダの詩の書から取られた一節である。
 戦争の話題はトゴグの回想を通じて、演目スマル・グガ(激昂)から取られたバラタユダの戦いに反対するスマルと支持するブトログルの意見衝突の中、なお続く。

 この上演は、ダイナミックな人形さばきを押し出しはしない。ほとんどサブタン(打ち合い)は無い。けれどその雰囲気の各効果は美しく、また魅了する。
 一時間半の短い時間で、ほとんどすべての場面が人物たちの会話である。
 それらの対話は重くシリアスな哲学を載せ、例えば生と死、戦争、そして人と唯一神の近いありようだ。とはいえ短時間でこの対話は明解にされていない、更なる熟考の始めとして観客へ姿勢を投げかけたものだ。

 生きる態度の中にトゴグの辛さ苦しさを感じたが、物語の終わりに彼は探していた海を見つける。

フマム ロフマディ、バラタ

 訳=松本和枝

 

 

 

 

ゴロゴロ通信65
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