松本亮版 美女と野獣 影絵詩劇「野獣、恋のバラード」を観て

                                         高橋 佐貴子



「私の美女と野獣は、ハッピーエンドではないですよ」。松本先生のいつもの笑顔にはすこし含みがあった。
私は映画でもドラマでも悲劇で終わる物語は好きではない。あやまってそんな物語に出くわしてしまったら、自分の頭の中でハッピーエンドを考え出して、ひとり自分を納得させる癖がついてしまっている。美女と野獣といえばディズニーアニメのハッピーエンドくらいしか知らない私は、結末に一抹の不安を感じながら松本亮版の美女と野獣に臨んだ。
影絵詩劇ではその人形さばきはもちろん、心情の動きがどんな風に描かれるのかをいつも楽しみにしている。この影絵詩劇では毎夜の時計の音を重ねるごとに、少しずつ、でも確かに近づいていく野獣と娘の心の動きが細やかに描かれていた。
夜の七時が近づくと、野獣はソワソワとその不恰好な姿の身支度を整え、娘に会いに行く。その仕草は、不器用で愛らしく、不慣れな愛情表現は、なんだかすこし滑稽で、大きい体と繊細な心遣いとの落差が、野獣の持つ切なさをよりいっそう強くしているような気さえした。
森で大暴れしながら、蛇から恐竜までもけちらして、食欲をむさぼりつづけた野獣が、娘に会った途端に獲物を取り逃がしてばかり。知らぬ間に自分の中の何かが変わっていくことに野獣本人も気がついていないようで、なんだか見ているほうがやきもきしてしまった。そんな野獣の気持ちとかさなって、私の気持ちは少し重くなりかけた。
そんな時、取り逃がされて「あれっ」と拍子抜けの声を上げ、これ幸いと足早に立ち去ってゆく蛇のユーモアが、私の気持ちをふっと押し戻してくれた気がした。
それにしても、娘は野獣のどこに惹かれていったのだろう。姿は見るからに凶暴な獣そのもの。にもかかわらず、娘に対してだけは誠実にやさしく接していて、娘はそんなところに惹かれていったのかもしれない。そのやさしさは野獣が本来持っていたのかもしれないが、でもきっとその醜い姿に対する引け目から生まれている部分も大きかったはずだ。だからこそ、野獣が本来の姿に戻り、野獣が野獣でなくなったとき、娘は目の前にいる美青年に対し心を閉ざしてしまったのかもしれない。
気が付けば始まる前の不安はすっかり忘れてしまっていて、そこでふと気がついた。これは悲しい結末なのだろうか。確かに「王子さままがいの美青年」と、抜け殻のような娘とのこれからを考えれば、やはりハッピーエンドとは言えないのかもしれない。影絵詩劇に特有の切なさは確かに残るのだけれど、でもやはり、私にはハッピーエンドに思えた。野獣と娘が寄り添って消えていく姿は、これからの静かで穏やかな日々に向かっていくようだった。私のいつもの癖がそう感じさせているのかとも思ったが、いつかの松本先生の言葉を思い出した。「どんな悲しい物語にも、どこかに救いがないとね」。
(博物館学芸員)

ゴロゴロ通信61
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松本亮版 美女と野獣 影絵詩劇「野獣、恋のバラード」を観て    高橋 佐貴子
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ワヤンの不気味な可能性について   松本亮

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