「野獣、恋のバラード」を見て

                                         吉上恭太



クリルに映し出されるグヌンガン。そして「親に捨てられた子、ないがしろにされた子は、かんたんに不良になる。野獣に変わるのさ。とたんに口もとから牙が生える」という印象的な語りが始まって、クリルに茜色の空、夕暮れのさびしい風景が浮かぶと、ぼくは、すでに物語に引きこまれていた。
十一月七日(土)、日暮里サニーホールで行われた影絵詩劇「野獣、恋のバラード」は、インフルエンザの影響で客の出足が心配だったが、どうやらそんな不安も杞憂に終わり、午後六時の開演時間には席はほとんどうまっていた。
いつものワヤン公演ならばダラン側に席をとり、ダランの人形さばきや、美しい人形を楽しむことにしているが、今回は作者・松本亮さんの「影を見るように作りました」という解説に従ってクリルに映る影の世界を堪能することにする。
「野獣、恋のバラード」はフランスの寓話「美女と野獣」を素材にしている。インドネシアでは、教科書に採りあげられるほど一般的な話ということだが、日本でもディズニーのアニメ映画や劇団四季のミュージカルでお馴染みだし、もちろんジャン・コクトーによる名作映画がある。松本亮さんも新作ワヤンの素材を探すときに思い浮かんだのが、コクトーのこの作品だったと「わが千夜一夜、わが流浪」に書いている。ぼく自身は、子どもの頃にテレビで見たきりで、モノクロームの美しい画像が遠い記憶に残っているが、じつは細部についてはまったく覚えていない。ほかのオリジナル・ワヤンのように日本の昔話をモチーフにしていない作品。ヨーロッパの寓話が、はたしてどのようにワヤンと融合するのか、という期待とともに開演時間を迎えた。そして冒頭のシーン。ぼくは黄昏時の、まさに逢魔時の不気味さとともに「生の世界と死の世界のはざま」に迷い込んでしまったようだ。死んでいるか、生きているか、わからない…cこの感覚こそ、ぼくがワヤンに惹かれる理由だ。いや、それはもしかしたら松本亮の文学、詩の世界なのかもしれない。
ぼくはワヤンを見るたびに死の世界の気配を感じる。それは恐ろしくもあり、しかし穏やかな、やすらぎの世界でもあって、自分の意志ではどうしようもない、その世界のゆったりとした時間の流れに身をまかせるしかないという感覚に包まれる。なんといったらいいか、この世とあの世の間を漂う浮遊感がなんともいえず心地いい。作者のアイデアという琵琶の音色も実に効果的だった。やはり語りには、琵琶の音が実に合う。
音楽には、ガムランは使われていない。その替わりに日本やインドの楽器、その他のパーカッションを中心にした手作り楽器を使用して、まさに国境を越えた音楽を作っていた。森重行敏さんによる音楽は、いつもオリジナル・ワヤンの楽しみのひとつで、シンプルにハーモニカで演奏した「ふるさと」がとても美しく印象的だった。終演後、クリルの裏に行ってみると、大小の植木鉢をさかさまに吊した打楽器があったのには驚いた。
モチーフはヨーロッパの寓話であっても、アジアのワヤン人形が使われることには、まったく違和感がなく、ジャワの民話にこんな話があってもおかしくないとも思える。美女であるがゆえに無意識に持つ残酷さ、そして野獣の切ない思いに身につまされるうちに物語は進む。インドネシアの人がどのように感じるのか、とても興味深い。さすがにワヤン、というか松本亮の作品。ディズニー・アニメのように大団円というわけにはいかない。野獣が美しい王子の姿にもどっても、娘の愛したのは野獣であって、ただの人間でしかない男ではない「…c…。思わずニヤリとする結末。いや、このあとに展開する新たなストーリーに思いをはせる、まるでフランス映画のようだった。こんなところにも松本亮のエスプリを感じるのだ。

(文筆業)

ゴロゴロ通信61
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「野獣、恋のバラード」を見て         吉上恭太
松本亮版 美女と野獣 影絵詩劇「野獣、恋のバラード」を観て    高橋 佐貴子
「野獣、恋のバラード」を観劇して       藤井 裕子
ワヤンの不気味な可能性について   松本亮

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