往く川の水 

                           芹澤薫



今回はひっそりと裏方に徹するはずでこのような場所に登場する予定はなかったのだが、主宰者からの有無を言わせぬ仰せなので、小耳に挟んだダラン達の感想を中心に雑感を記してみよう。
当夜、招待されたダランがほぼ全員現れた中で、キ・マンタッブは「物語も音楽もバグース!」と繰り返していた。彼は新作の人形と伴奏、特に琵琶の音がお気に召したようだった。琵琶の存在は、彼だけでなく、殆どすべての観客に強い印象を与えたようである。
新作の人形、中でも主人公の「水のおんな」については、誰もが口を揃えて誉めそやしていた。パクリラン・パダットとサンドサの旗手、キ・バンバン・スワルノは、それだけでなく、多彩な国々に由来する人形および音楽が無理なく統合されていて効果的であるという感想を述べた。曰く、技術的にはサンドサの影響も含めて、すべての要素がmasuk(色あわせなどに使う場合、調和というほどの意味)でsampai(達意)ということになる。これは、松本先生のワヤンを巡る長い旅路の大いなる成果であろう。キ・ナルト・シンドゥも同じような見解で、積極的に好んで見ていたようだった。曰く「僕が最後まで居たということは、気に入ったということなんだ。」ただ彼は、人形の動きをもっと工夫すればより生きたものになるのではと付け加えた。
少し過激的な意見を聞かせてくれたのは、マンクヌガランの踊り手のB氏。彼も主人公「水のおんな」の人形を激賛しながら、いっその事、シンピンガン(クリルの両脇の人形群)も全部新作の人形にしてはと提案した。上演内容を考えれば、ジャワの伝統的なシンピンガンを使うのは確かに違和感がある。このことを想いながら先日、キ・ントスの「人間の顔ワヤンWayang Rai Wong」と称するワヤンを観ていて妙に納得してしまった。というのも、彼は伝統的なシンピンガンを全く用いず、クリルの両脇には新作の様々なワヤンを展示でもするように重ねずにはり付けてあったからである。松本ワヤンも、内容に相応しくシンピンガンを変えて、象徴的なジャワの意味体系から抜け出してみるのも一考であろう。
踊りについては、観客に意図が伝わりにくい印象があった。踊り手の準備不足か、または照明の角度などの技術的な問題に起因するものであろうか。内容も繰り返しが多く、長すぎるような気がした。ダラン達は「それでもmasuk」と余り問題にしていなかったが。
個人的には、全体を通じて根底に流れる気配が妙に心地よかった。キ・ナルト・シンドゥがTalu(伝統的なワヤンの前奏曲)と称した、最初の琵琶の演奏題材が平家物語だったのも偶然ではない気がする。それと、最後の飄々とした雰囲気が私は特に気に入った。
準備段階での松本先生のご発言「ソロでこんなことをするのも、最初で最後でしょう」が、上演後1ヶ月経って電話でお話した時には「あと一回位はやってみたい」と豹変していたが、その辺りは何となく想像範囲内であったし、私達にとっては嬉しい豹変である。次作に更なる期待をこめて拙文の末辞としたい。

Selamat maju terus!

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