《水のおんな》人生を映す

       (ソロポス紙、2006年7月28日、mg203)



 7月26日(水)夜、マンクヌゴロ王宮のプランウダナンでのワヤン・クリ《水のおんな》(別題《プトリ・ジャディジャディアン》)上演の冒頭は、クボタ・アキコによって奏された琵琶の絃の弾ける音であった。かすかな歌声を伴う日本の独特のギター音は、数ヶ月をかけて準備したこの作品の神秘的な印象を増幅した。
 そのダラン、マツモトリョウは日本の詩人であり、この四十年をかけてジャワ島のワヤンに専念してきた。日本文化とインドネシア文化の背景の微妙な同一性が彼を魅惑し、彼をしてジャワ本来の文化を探求させたのだ。彼には多くの著書やドラマの脚本があり、それらの多くはワヤンを推しすすめる作品群で、『ワヤンを楽しむ』『ラーマーヤナの夕映え』『マハーバーラタの蔭に』『ワヤン人形図鑑』、影絵脚本『まぼろしの城をめざす』などがある。
 ほとんど毎年数回にわたって、マツモトと日本ワヤン協会の仲間は、日本社会にとどけたいと願うさまざまなメッセージを展開して上演を重ねている。今回の演目上演は、七年前の初演のあと、2006年に入っての東京(6月)、ジョクジャカルタ(7月〕につぐ4回目の公演である。マツモトは和歌山県生まれ。のち東京・平凡社の雑誌「太陽」の編集に長くたずさわった。ワヤンについては、1968年、プランバナン寺院の近くではじめてワヤンの上演を見て、心惹かれたのである。

 「日本の物語」

 《プトリ・ジャディジャディアン》はサン・ダランにとって、あたかもつねに流れ、いずこへ向かうともしれぬ水のような、人生を映している。この物語は平安時代(千年前ころ)の日本の話だが、それをもとに魔法的であると同時に神秘的な印象を秘める一個の今日的なワヤン上演に仕上げている。この世に超能力の赤鬼が生きていて、彼は一人の美女を作ろうとしている。彼にしてみれば、この世のすべての人間が死んでも地球は何の影響もなく、しずかに回っているだろう。すべてが消え、心だてのいい女が残るだけでいい。彼はいま地上で最も美しい人間をつくる要件としての人間の骨をあつめ、細工している。
 その努力はまた彼が宮廷のひとりの学者と賭博することで成功する。つまり賭博での敗北によってその学者に対し、まさに甘く柔らかいガディス(少女)を喜んで献呈することを可能にする。
 かくてその男はサン・デウィを手に入れることはできたが、なお百日がたたぬうちは彼女に手を触れることが許されないのだ。サン・ジン・メラ(赤鬼さん)はまさしくわざと、彼によれば、つねにこの地球上のあらゆる混乱の引き金となる男の忍耐なるものに対し、試練を課したのだ。幻想と想像がサン・ガディスに近づこうとする男をいつも苦しめる。
 ついに八十日という日がやってきて、欲望と我慢切れがその心をゆさぶり、ついに彼は決然とサン・ガディスに触れ、手探りし、愛撫しようとする。その男の不注意が、まだ名前も与えられていないと告白するサン・ガディスに悪い影響をおよぼし、しぜんに彼女は変身し、流れる水となって男のまえから消え失せる。あたかもつねに回転する水のサイクルのように、すべてはそれぞれのプラン、方法を見つけだすだろう。そのガディスは存在するのか、しないのか、すでに神により線が引かれているのだ。会場(プンドポ)を満杯にした見物人たちは、日本語とインドネシア語による上演の舞台の雰囲気に漂っているかとみえた。

 琵琶や笛のようないくつかの日本独特の音楽、そしてプロジェクターから写し出されたスライドの風景写真と解けあったコンピューターからのバック・ミュージック、それらが舞台のよりいっそうの複合性また現実味を感じとらせたのである。「悲しみ、喜び、笑い、気まぐれ、また死などのすべては、世の誰しもがとうぜん感得していなければならぬ人生の活力なのです」と、なめらかなインドネシア語で、マツモトはそう語った。                    

(R)

ジョクジャ・ソロ両古都での公演を終えて(松本亮)
水のおんな《プトリ・ジャディジャディアン》(チュ・ストヨ)
往く川の水(芹澤薫)
プンドポの夢 ―再びウィジョヨクスモに―(塩野 茂)
二〇〇六年ワヤン大会に参加して(杉田浩庸)

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