ジョクジャ・ソロ両古都での公演を終えて 

松本亮



 昨年のジョクジャのワヤン大会のときもそうだったが、要するに上演参加ということは、大会見物の旅とはまるで異なり、上演準備のもろもろに追われて、他の会場の出し物を見物に行く時間がなく、上演が終われば終わったで、ほっとして気分が宙に浮いている。そんなことで今年も他にどんなワヤン上演があったか、とりあえず実行委員会発表のチラシにそって羅列するに止めるしかない。これら以外大会中の上演もいくつか耳にしてはいるのだが。
 第1会場=3・1記念会堂(ジョクジャ)、影絵詩劇《水のおんな》、キ・ティムブル《スリムリ》=23日。ボジョヌゴロ(東部ジャワ)のワヤン・ゴレ=24日。マドゥラ島のワヤン・クリ=25日。ロンボク島のワヤン・クリ=26日。第2会場=バントゥル県プレレ村役場、パプアのクロンポ・スニ・ミミカ=24日。ガジャマダ大学ワヤン=25日。ジョクジャのワヤン・クリ《スマル・ボヨン》=26日。
 第3会場=バントゥル県トリムルヨ村役場、バントゥルのワヤン・ジュムブルン=24日。マグラン(中部ジャワ)のワヤン・グトゥク=25日。ガジャマダ大学ワヤン=26日。

 この大会が終わって数日後、私はバントゥルでジョコ・エダンのワヤンを見た(ゴロゴロ通信前号参照)が、さらに9月に入って、ジョクジャの友人から、「あの大会まではジョクジャ地方で被災に遠慮があってかほとんどワヤンは上演されなかったけれど、8月になって以前のようにあちこちで見られるようになったよ」と連絡があった。
 しかもなお被災チャリティ運動の要望が叫ばれている。それとは別に、インドネシア政府は外国からの義援金を、半壊の家には一千万ルピア、全壊には三千万ルピア、分配するとテレビで繰り返し言明しているが、いつのことやらと被災者たちは期待と不安相半ばだという。

 《水のおんな》の受けとめられ方について

 《水のおんな》の評判は信じられないほどな好評である。ワヤンの本場中の本場ソロ、ジョクジャでのことである。むろん私としては私の敬愛する土地で、目の最高に肥えた親しい大先輩や友人たちを前にありきたりな作品を上演して、彼らをがっかりさせるわけにはいかない。私の無理をいろんな面で長く支えてくれている多くの出演者、スタッフ、仲間たちの気持ちを落ち込ませるわけにはいかないのだ。しかし細心の注意をはらって仕上げたとしても、とんちんかんな恥ずかしい仕事をしでかすことだって大いにありうることだった。
 幸いにも多くの新聞やテレビに大きくとりあげられ、好評ということで、私の傲慢がともかくにも受けいれられたような気がしてほっとしたのだが、「ワヤンを学びながら、物語を日本中世説話から選び、あくまでも私たちの体内を流れる血の熱さ・冷たさから発想した作品」としては、いかにもまだまだ試行錯誤のただ中にあると思われる。
 ただ、昨年9月、初めてジョクジャに《まぼろしの城をめざす》の上演でお目見えしたときの新聞には「ワヤンは日本人に興味を持たれている」「キ・マツモトは40年間ワヤンを学んだ」などの見出しでの紹介が多かったが、今年の見出しは「ワヤンは見世物なだけでなく指標である」とか「ワヤン・ジュパンの中のジャワの魂」「《水のおんな》人生を映す」などとあり、その内容は、この作品を真っ正面から分析評価してくれるものだった。
 私は作品を作るに当たっては時として、そこにこの世への物言い、私自身への世迷い言をはげしく挿入する。その姿勢はおそらくワヤンそのものが本来身に具えている途方もない処世観ないし人生哲学吐露の影響によるものだろうと勝手に考えている。それが何より優先されてあり、それさえ端正に立ち上げることができればいい。他はあとからついてくる。そのあたりを見定めながら、私はとりあえず物作りに立ち向かうしかないのである。

水のおんな《プトリ・ジャディジャディアン》(チュ・ストヨ)
《水のおんな》人生を映す(ソロポス紙、2006年7月28日)
往く川の水(芹澤薫)
プンドポの夢 ―再びウィジョヨクスモに―(塩野 茂)
二〇〇六年ワヤン大会に参加して(杉田浩庸)

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