種の力 

芹澤 薫

                                      



形あるものと無いもの 今回の公演をバグスと褒める声を其処此処で耳にしたが、ジャワ人は本心を簡単に明かさないのが常なので、どこまで本気で言っているのか、どこまでわかって褒めているのかと、無礼ながら最初は少し斜に構えて聞いていた。確かに、松本影絵詩劇の魅力のひとつは、観衆の年齢・背景・能力・興味に応じて多角的な享受ができるという点にある。例えば、子供連れで観ていた舞踊家のムギヨノ氏は、特に手踊りと影絵の組み合わせに興味をひかれたようであった。ジャワの他、世界各地の芸能に造詣の深い観客にとっては、地域も国境も伝統の壁も越えた人形や音楽について、宝探しをするような楽しみやそれらの新しい組合せを味わう楽しみもある。そのような中で「公演から種を持ち帰り花を咲かせて実までならせた」とでも言えそうな、ハリ氏の類稀なる後日談を聞き、諸氏の賛辞は社交辞令などではなかったと確信するに至った。ハリ氏は中堅の踊り手でソロ藝術大学の舞踊科長であるが、公演後まもなく、隣人に相談を持ちこまれた。28歳の娘が55歳の男性と恋仲であることが発覚したが、年齢差があり過ぎる上に相手の男性は病気がちなので、どうしても結婚を許す気にはなれない、と。この例は美女と野獣のような異類婚ではないが、世の中にありがちな、身分の違いや貧富の差など「不釣合いな組合せ」のひとつである。松本影絵詩劇から受けた感動が未だ冷めやらぬうちであったため、そこから学び取った愛と生の真実について熱を込めて語ったところ、両親の胸のつかえが完全に取れ、心労からの病気も治り、当事者2人も自信を取り戻して、周囲の祝福に包まれめでたく結婚に漕ぎつけたという。美女と野獣の筋自体がどこにでもある単純な物語であるにも拘わらずハリ氏の話が説得力を持ち得たのは、松本影絵詩劇の持つ統合的な力が彼の心を打ったからであろう。それは演出の妙に由るところが大きいが、ハリ氏は松本ワヤンの底を流れる無常観も感じ取ったと見える。命が儚いからこそ形に捉われず生き続ける愛が尊いのであり、先の運命がわからぬからこそ今この時の感性が大事なのである。「あとは生の大海に飛び込むのみ!」とまでドゥルノよろしく言ったかどうかは定かでないが、そうした洞察を踏まえた語りが隣人の心を開かせたのではないだろうか。上演面で印象深かったのは、松本氏が40年を超す歳月をかけて到達した境地、独創的な試みの奥から、ジャワのワヤンの伝統的なエッセンスが香り立ってくることであった。例えば、万能の舞台装置グヌンガンの代替物のひとつである宝物セットには、ウィジョヨクスモやチョクロなどがぐるりと放射状に配置され、野獣の超能力の象徴として使われていた。現代のダランが大衆を意識して具象性に走る傾向があるのに対し、松本影絵詩劇ではワヤン特有の象徴性が随所に色濃く保持されている。また、コクトーの映画では、最後に元の姿を取り戻した王子とベルが手を取り合って舞い上がっていくが、松本版では、中世フランスのカップル用舞曲パヴァーヌにのって野獣の魂が娘の魂を連れ去ってしまい、王子の前には娘の抜け殻が残される。これは松本氏独自の解釈を示すものであろうが、伝統的なワヤンの閉幕に舞う木偶人形ゴレッ(探すという意味)の如く結論は観衆に委ねられていて、現代ジャワのどんなワヤンよりジャワらしい仕掛けのように思われた。多国籍というより無国籍を意図したという伴奏は、曲の特定できるものでも楽器がすべて異国籍である場合が多く、何処にもない多面体のような趣で聴く者の想像力を刺激した。録音に生演奏を重ねる方式で、現地の演奏家も柔軟に対応していた。録音済みの指定音源の中では、平家物語の世界を彷彿とさせる琵琶の音に松本氏の格別な思い入れが感じられた。基本的に音楽が発言し過ぎず、余白に和楽器や鳴り物が忍びこむ間合いが日本的で、観る者を物語の中に引き込む力があると思った。中盤には恒例の踊りの要素もあり、作品は風味豊かな創作料理のように仕上がっていたが、伝統的な演目や人形もガムランも使わずにジャワのエッセンスを映し、異国の民話と無国籍音楽仕立てながら日本のエッセンスを失わないところに、松本氏のワヤン研究の長さ・深さ及び日本人としてのアイデンティティの確かさに裏付けられた、ワヤン・ジュパンの存在意義があるのではないかと思う。重点は語り物としての側面に置かれている。ハリ氏が、上演自体の物珍しさを超えたところで、語りの中から価値の種を確実に掴み得たということに、松本作品の語り物としての力の証が見てとれる。その中には、ジャワと日本との哲学的な出会いから得られた種が内包されていると思われるが、松本氏が往年のダラン達から授かったに違いない無数の種も姿を変えて生きているのであろう。ワリ・ソゴの時代にはイスラームの教えがワヤンを通じて伝えられ、いつの時代にもダランが社会の啓発者的存在であったことに鑑みれば、今回のワヤン・ジュパンを通してジャワの観客に人間性の一番深いところにある価値を伝え、その隣人までを良い意味で間接的に啓発し得た松本氏は、ダラン本来の機能を果たしているとも言えるのではないだろうか。ハリ氏は松本氏をイスラームの聖人に喩えていたが、松本氏が日本におけるワヤン研究のパイオニアであり、ワヤンの伝道者でもあることを思えばそれも過言ではあるまい。この時期にソロで公演がありハリ氏がそれに立ち会ったことや、彼の隣人への「松本効果」まで私が知り得たことも、偶然ではないという気がする。こうした心憎いやり方によって、どうしようもない今の世で藝術がまだ力を持ちうることが確認できたのは幸運であった。人生はワヤンであり、ワヤンは人生である。色即是空にして空即是色。  技術上の問題にも触れるつもりだったが、割当て紙面はとっくに尽きているので、機をあらためることにしたい。 Viva saint-Matsumoto!

ゴロゴロ通信 On Line版 contents



ダラン・ジュパン、ガドガド風味のワヤンを上演する
(ジョグロスマル紙=ソロ市で売り出し中の日刊紙=2011・07・06、リナ・スティアニングルム)
マンクヌゴロ王宮で「ラクササと美少女」を見る チュ・ストヨ
種の力  芹澤 薫
ジャワ再訪  吉上恭太
初めてのソロでのワヤン上演 中村 伸

日本ワヤン協会

東京都世田谷区上北沢4-30-10-707
tel&fax 03-3303-6063
E-mai: banuwati@kt.rim.or.jp

Nihon Wayang Kyokai Home Page