「くらげ」にあこがれて

                                     吉上恭太



 初めてワヤンを見たのは、もう一〇年ほど前のことでしょうか? お そらく渋谷ラ・ママでのオールナイト公演だったように思います。その ときはお祭りのような雰囲気や、スクリーンに映される影の美しさや、ガムラン音楽と蛙の声(?)、クリルの裏側(いや、表側なのかな?) から見るダランの人形操作の手さばきなど、見るもの聞くものがすべて 物珍しくて、あっという間に朝を迎たような気がします。徹夜明けで渋 谷の街を歩きながらも、耳にはいつまでも「ガトコチョ」という不思議 な響きが聞こえていました。そういえばワヤンといって最初に思い起こ すのが、影や人形、ガムランではなくて、この日の語りの声なのです。 たぶん松本和枝さんの語りだっと思うのですが。
 それから毎年、一、二回は公演を見るようになり、最近は八幡山にも おじゃまするようになりました。そして今年はジャワ公演にも誘ってい ただいたり、東京家政大学博物館に集まった膨大な数のワヤン人形に圧 倒されるなどして、年々、我が家のワヤン度が増しているわけです。
 ワヤンの魅力といっても、不勉強な僕はいまだに人形たちの見分けも つかず、正直に告白すれば、公演中、一度は必ず睡魔に襲われて居眠り をしてしまうのです。「ムルウォコロ」のときは睡魔との戦いを余儀な くされます。
 そんな怠け者の僕でもワヤンを見たあとは、おだやかな気持ちになっています。まるで鎮静剤を打ったように日頃の生活の痛みを忘れている のです。なにか、日常の面倒くさいことがどうでもいいような気分に なってしまうのですね。本当は、日常生活を営むには、こまったことな のかもしれません。
 どの演目でも、この鎮痛効果はあるようです。物語の進行もときどき 把握できなくなるのに、どうしてなのだろうと考えます。
 ワヤンを見ていると、時間の流れが変わります。演目が始まるまえの ガムランの演奏から時間の流れがゆるやかになっていき、薄暗がりの中 でダランが人形を操り、語りが始まるとスーッと他の世界に迷い込んで しまいます。
 他の世界とは、どこなのだろうと考えると、もしかしたら、あの世な のかもしれないな、と思うこともあります。その感覚は、初めてワヤン を見たときからあったのかもしれませんが、はっきりと意識したのは、 今年の七月のある日、八幡山で「まぼろしの城をめざす」のリハーサル を見たときでした。小さなクリルに繰り広げられる物語りに引き込まれ ていくうちにだんだん自分が生きているのか死んでいるのかわからなく なったような不思議な気持ちになったのです。このような感覚は、いま までほかの演劇や映画などでは得なかったものでした。似ているとした ら、子どものときに読んだナルニア国物語などの長編の物語を読書して いるときに感じたものに近いかもしれません。
 これは浅薄な知識しか持たない僕の勝手な解釈のせいかもしれませ ん。もちろん物語の世界観は違うのですが、見ているうちに、または読 んでいるうちに、自分が物語の時間にまぎれこんで、壮大な歴史や神話 の一部になってしまったような感覚です。ゆるやかな時間の中でじたば たせずに、語り部の誘うがままに身を任せて漂う心地よさといったらい いのでしょうか。
 松本亮さんのお書きになった「わが千夜一夜、わが流浪」には「くら げのように」という表現がありますが、まさにワヤンを見ることで「く らげのように漂うこと」を体験出来るのではないでしょうか?
 なかなか「くらげのように」なれない僕は、「時間を作ってぼんやりしているのです。僕は、そういう風に一生を生きてきました。そういう生き方も命懸けなんですよ」という松本亮さんの言葉の重みをかみしめています。                    

(文筆業)

ゴロゴロ通信54
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影絵詩劇「海が見たい」評  北村正之
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