『水のおんな』
ー「長谷雄草子」よりー
説話絵巻「長谷雄草子」は十四世紀半ばごろの作。制作者不詳。紀長谷雄(八四五〜九一二年)は平安時代のすぐれた漢学者、文章士、大学頭にもなった実在の人物で、菅原道真とも親交があったとされる。多くの説話絵巻と異なり、この「長谷雄子」には絵巻の原典となる説話や物語はみつからず、物語は絵巻の中に記された詞書にあるだけだという。
[脚本抄]
このかわいらしい話は、千年も前の物語だといっても、みなさんは信じて
下さるかな。いや、信じて下さらんでもよい。もともと東も西もないのじゃ。
さればどこに南や北があろうものか。
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赤鬼 うん、どうやら出来てきおったな。美女をつくろうとして、もう幾百年たったか。形だけならどうにでもなる。だがその心が問題なのじゃ。わしにも自信はないが、やればできるかもしれんからな。さ、女よ。気分はどうかな。
女 ひょうひゅう(笛の音)
赤鬼 気分はどうかといっておるのじゃ。むつかしいことは聞いておらぬ。
女 ひょうひゅう(笛の音)
赤鬼 うん、形はできた。こころ映えもよさそうじゃ。だが、ものが言えぬ。のどから笛の音が出るだけじゃ。ちょいと失敗かな。つくりそこねた。うん、だがここまでくりゃー、あと一息だな。
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男 そなたの名は何というのだね。
女 (少し間をおいて)私にはまだ名前がないのです。
男 名がない?それはまたどうしてだ。
女 (少し間をおいて)私はまだこの世に生まれていないのです。
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男 サイコロを転がしたあの時の相手は、鬼であった。さよう、かの鬼もまたわが魂のかたわれであったのかもしれぬ。奴は負けつづけ、しかもわしを食い殺そうともせず、律義にも、約束どうりの絶世の美女をわしに届おった。
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男 味な鬼め。百日という期限付きが、わしの血をたあいもなく逆流させおっ
た。だが、あれからともかくも、八十日という日がたちおったな。
それにしても今宵、なんとやわらかなくうきのながれだ。みどり色の風が
夜の気配にみちみちている。
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